男は女々しくなるな?

「男の掟」という幻想について感じたことを書いてますが……。
 
次は、《女々しくなるな》です。

ウィリアム・ポラックの説明によれば、「少年、そして大人の男たちにとってもっとも深い心の傷をもたらし、もっとも危険な教義は、感情を表現したり依存心や愛情や共感を示す ことによって《女性的》と看做されることである。女々しい感情も行動もタブーなのだ。このような感情や行動は探求する機会すら与えられず、育てるまもなく 押し殺すことを強制される。それを押して《女性的》な感情や行動を示したならば、《まっとうな男らしく》振舞えない落伍者として情け容赦なく罵倒される。 その結果、少年たちは二度と再び同じ間違いを犯すまいと自分に誓い、感情を埋葬してしまう」とのことです。

これは何事にも動じない大きな樫の木の掟と似ていますが、主に感情を出す、涙を流す、自分の弱さを認める、といった行動に対する抵抗をさしているように思います。
 
自分の心の扉を開けてそこにある感情を表現したり、自分が出来ないということを認めたり、あたふたしている姿を見られたり……。こういったものを「女々しい」ことだと感じ、それは自分の存在を脅かすものだと感じているのかも知れません。
 
それは女々しい態度だ……、お前は男の子なのに……、男らしくしなさい……、女の腐ったような態度をとるな……、などなど。
「沽券に関わる」「面目ない」という表現も、これを無意味なプライドと見るだけではなく、その背景にある社会的な刷り込みにも注意を向けなくてはいけないのかも、と感じます。
 
もともと男の子の表現は行動による部分が大きいらしく、その表現の違いというものも理解してあげる必要がありそうです。
 
「多くの男の子が感情を言葉にする代わりに、行動で表現しようとする。例えば、母の日に「お母さん、ありがとう」という代わりに、一緒に映画に 行こうと誘ったりする。次に、家族や友人が困っているとき、彼らを守るための行動によって愛情を表現しようつする。あるいは、親への感謝の気持ちを、トイ レの水漏れや屋根を修理するなど、仕事を通して表現したりする。さらに、多くの男の子が他社への愛情や人間関係への渇望感を、横断歩道を渡る老人を助けた り、学校で人種差別されている級友の為に闘うというような、正義感に基づく行動で示そうとする」

「た とえば女の子は母親への愛着を、抱きついたりキスしたり、髪に触れたり、話しかけたりすることで表現しがちだが、男の子は一緒にゲームをしたり、乗り物に 乗ることを求めたりしがちである。あるいは、背中を突っついて逃走し、後を追いかけてくれることを期待したりする。思春期の女の子ならば母親を抱きしめた り、小さな贈り物をするかもしれないが、男の子は日頃は敬遠している家事手伝い、ゴミ袋を外に出したり、部屋の掃除をしたり、自分の衣類を選択したりする ことで母親とのつながりをもとうとする。あるいはサイクリングや映画に誘ったりする。女の子は父親とのつんがりを求めて宿題の質問をしたりするが、男の子 は父親をからかったりレスリングをしかけたりする」

これは男の子が本質的にもっている傾向なのか、あるいは「女々しい」表現を禁止されてきたために獲得した傾向なのかはわかりません。
 
女性にとってみれば、このような「女性的」「感情的」表現を男性から期待しているとガッカリすることもあるかも知れませんね。ご主人が普段していないようなことをしている時には、それを「愛しているよ」という表現だと理解してあげるような、ちょっと余裕が大切かも知れません。

ウィリアム・ポラックの「Real Boys」には興味深い観察があります。

「従来、心理学者たちは恥意識に過敏であるのは女の子、とくに十台の女の子の特徴であると主張してきた。しかし、私は長年の男性研究か ら、思春期の少女たちを沈黙されて自己主張の声を奪うものと同じ恥意識が、もっと幼い男の子たちを抑圧していることを学んだ。女の子は恥に敏感であるかも しれないが、男の子は恥に恐怖しているのだ。彼らは面目を失う場を避けるためならどんなことでもするのである。辱めを受けるかもしれない可能性を感じたと き、男の子たちは衝動的になったり、挑戦的になったり、怒りを爆発させたり、暴力に走ったりする」
 
個人によって違うところはあると思いますが、つまり恥意識(自分が人間としてダメ、皆から認められない、周囲の子とは違っている……)は、女性は思春期(つまり自分のアイデンティティを作り上げている段階)で影響を受けるのに対して、男性はそれより前、つまり自己存在を確立する段階で影響を受けているということかも知れません。
 
とすれば、より深い、自分の生死がかかっているところに引っかかっていますから、第一チャクラに影響するのはもちろん、大人になってから関連をワークするにあたっても、なかなか出てきにくいということは言えるかも知れません。
 
同書に次のような描写があります。とても的を得ているように感じました。
 
「多くの男の子たちが早すぎる親離れを強いられ、年齢にそぐわないチャレンジにむかわされている。5・6歳のうちから、学校やキャンプやさまざまな活動の中で独立心を見せることを期待され、思春期には新しい学校、運動競技、仕事、デート、旅行などの試練で再び試される」

「少年たちの世界を広げることが悪いのではない。親はいつでもそれを目指すべきだ。問題は、どのようにしてそれをするかである。十 分な準備のないまま、心の支えもなしに、自分の気持ちを表現するチャンスも与えられず、そして後戻りすることも、進路を変える選択もないまま、突然、家庭 の外に放り出されたときになにが起こるのだろうか。とまどいや不平をもらすことは赦されない。なぜなら世間の常識は、男の子が《真の男》になるためには 『感情を殺さなければならない』というからだ。私たちは女の子にはこのような『心の切断』を強いない。むしろ、男の子と同じように扱ったならば、彼女たちが深く傷つくことを知っている」

「男の子は自 分の脆さを恥じ、そのために感情を殺して、やがて本当の自分を失っていく。つらいときの支えになってくれるはずの家族にすら、『男らしくしろ』と突き放さ れたとき、少年たちはたったひとりでどうしていいかわからず、心細くて怯えてしまう。ところが世の中は、男はそんな《女々しい》感情を持たぬものだとい う。じゃあ《持っている》自分はダメな男なんだ、と恥じる。しかしその恥辱感を語ってもいけないし、どんな言葉で語ればよいのかもわからない。これをくり かえしていくうちに彼らの感性は心の奥に沈潜し、自分自身の心との完全な断絶が起こる。こうして仮面をかぶりきってはじめて、世間は彼らを『男になった』 と認めるのだ」
 
 
イタリアでは成人してからも親と同居している男性が多いらしいです。これはアメリカ的な感覚から言えば「親離れしていない」「女々しい」「マザコンか」というように感じられますが、実は、それが男性の心の安定をもたらしている可能性もあるかも知れません。家族を大切にする心、夫婦の心の機微を感覚的に理解している男性をつくっている基盤になっているのかも、と思います。

さて、次の「男の掟」ですが、「人の上に立てなきゃ男じゃない」というものです。

「これは少年、そして大人の男たちが支配者、権力者としての地位を勝ち取るために不可避なものである。別の言い方をするなら、屈辱にま みれることを絶対に避けるための、冷徹を装うための、すべてがうまくいっているふりをするための、現実とは食い違ってもすべてが自分のコントロール下にあ るふりをするための方法として、男たちが叩き込まれているものである。この『男の掟』によって少年たちは学業やキャリアの追及に血眼になる。多くは負ける ことへの恐れや、幸福感を見出せない心を押し隠すためにそうするのだ」
 
男性はもともとリーダーや一番になることを期待されているという部分はあるかも知れませんね。親から競争心を鼓舞されるようなことも多いし。
 
これがコントロールしたい、すべてがうまく行っている見かけを保たなくてはいけないという気持ちにつながりそうです。
 
具体的に考えてみると、例えば、先日見た記事のなかに、ある男性(既婚)が妻に隠れて借金を負い、それが問題になって夫婦が離婚したというものがありました。この男性は妻が借金のことを問い詰めると、1ヶ月ほど失踪してしまったそうです。
 
この場合など、男性を回避傾向があると片付けてしまえば簡単ですが、なぜこの男性は借金するほど困っていることを妻や家族に打ち明けることが出来なかったのか、という疑問が浮かびます。
 
恐らく、これが「すべてがうまく行っている見かけを保」つため、意地を張った、ということかなと思います。
 
あるいは、夫婦の間に赤ん坊が生まれて、育児をする際に夫婦間で責任分担が出来ないということがあります。妻は夫に赤ん坊をまかせておくと不安 で仕方がないので、何かと口を挟んでしまいます。その結果、夫は育児(オムツ替えや粉ミルクを準備するということも含めて)に対する自信を失い、子供と二 人でいることに不安を感じるようになります。そこでそれに立ち向かう気持ちがあればよいのですが、男性によっては仕事に逃げるようになることもあります。
 
これも自分がうまく出来ないことを認めることへの恐怖があるのかも知れません。客 観的に見れば、母親(特に母乳をあげる場合)ほど赤ん坊との強い絆を持っている存在はなく、乳幼児期にはその間に入ることは出来ない可能性が高いのです。 そこで疎外感を抱くことなく、自分が出来る役割(それは収入を稼ぐということではなく、家庭内で直接育児に関わる範囲で)を創りだすことを選択しなかった ということかな、と思います。
 
自分が不安な時、苦しい時に助けを求めることが出来ないというのは、独立している ということではなくて、依存の別の表現ではないかということをどこかに書いたことがありますが、まさに自分にうそをついてまで、独立している、リーダー シップを握っている、物事の操縦桿を握っていると思い込みたい、というのはこのような家庭・社会からの刷り込みかも知れません。
 
学業でも仕事でも負けてはいけないと思っている。自分が充実感を得られなくても、諦めて仕事(=収入)を続けていかなくてはならない、という類のことは、よく感じることでもあります。

さて、次の「男の掟」ですが、「人の上に立てなきゃ男じゃない」というものです。

「これは少年、そして大人の男たちが支配者、権力者としての地位を勝ち取るために不可避なものである。別の言い方をするなら、屈辱にま みれることを絶対に避けるための、冷徹を装うための、すべてがうまくいっているふりをするための、現実とは食い違ってもすべてが自分のコントロール下にあ るふりをするための方法として、男たちが叩き込まれているものである。この『男の掟』によって少年たちは学業やキャリアの追及に血眼になる。多くは負ける ことへの恐れや、幸福感を見出せない心を押し隠すためにそうするのだ」
 
男性はもともとリーダーや一番になることを期待されているという部分はあるかも知れませんね。親から競争心を鼓舞されるようなことも多いし。
 
これがコントロールしたい、すべてがうまく行っている見かけを保たなくてはいけないという気持ちにつながりそうです。
 
具体的に考えてみると、例えば、先日見た記事のなかに、ある男性(既婚)が妻に隠れて借金を負い、それが問題になって夫婦が離婚したというものがありました。この男性は妻が借金のことを問い詰めると、1ヶ月ほど失踪してしまったそうです。
 
この場合など、男性を回避傾向があると片付けてしまえば簡単ですが、なぜこの男性は借金するほど困っていることを妻や家族に打ち明けることが出来なかったのか、という疑問が浮かびます。
 
恐らく、これが「すべてがうまく行っている見かけを保」つため、意地を張った、ということかなと思います。
 
あるいは、夫婦の間に赤ん坊が生まれて、育児をする際に夫婦間で責任分担が出来ないということがあります。妻は夫に赤ん坊をまかせておくと不安 で仕方がないので、何かと口を挟んでしまいます。その結果、夫は育児(オムツ替えや粉ミルクを準備するということも含めて)に対する自信を失い、子供と二 人でいることに不安を感じるようになります。そこでそれに立ち向かう気持ちがあればよいのですが、男性によっては仕事に逃げるようになることもあります。
 
これも自分がうまく出来ないことを認めることへの恐怖があるのかも知れません。客 観的に見れば、母親(特に母乳をあげる場合)ほど赤ん坊との強い絆を持っている存在はなく、乳幼児期にはその間に入ることは出来ない可能性が高いのです。 そこで疎外感を抱くことなく、自分が出来る役割(それは収入を稼ぐということではなく、家庭内で直接育児に関わる範囲で)を創りだすことを選択しなかった ということかな、と思います。
 
自分が不安な時、苦しい時に助けを求めることが出来ないというのは、独立している ということではなくて、依存の別の表現ではないかということをどこかに書いたことがありますが、まさに自分にうそをついてまで、独立している、リーダー シップを握っている、物事の操縦桿を握っていると思い込みたい、というのはこのような家庭・社会からの刷り込みかも知れません。
 
学業でも仕事でも負けてはいけないと思っている。自分が充実感を得られなくても、諦めて仕事(=収入)を続けていかなくてはならない、という類のことは、よく感じることでもあります。

大昔、家庭がより大きなコミュニティの一部であった頃、つまり村に産まれた赤ん坊は村の子供だと考えられており、若い未経験の親には老人が物事を教えるシステムが出来ていた頃、母親は育児に悩んだら、年長者の意見を聞いたものです。
 
しかし、このような「男の掟」を外的に刷り込まれた男の子を前にして、指導を仰ぐ存在も持たない母親(別に一般的には母親に限りませんが、特に男の子の教育に限定しているので、ここでは一応母親としています)は、大きな課題を抱えることになります。
 
「母親は息子を情感豊かに育てる責任を負わされると同時に、その情感を表現すれば辱められる世間で生き抜くために息子を感情的に切り離さなけれ ばならない、という難題を押し付けられているのである。彼女たちは、息子が成長するにつれて、抱きしめたり感情を受け止めてやることを制限するべきだと言 われる。しかし、息子の自尊心が損なわれて『男の掟』に対処できなくならないように、慈しみつづけよ、とも要求されている。母親たちの『いったいどうした らいいんです?』という声を、私(ウィリアム・ポラック)が繰り返し繰り返し聞く羽目になるのも当然なのだ」

「多くの母親が息子との心のつながりを保ち続けたいと望んでいる。しかし、彼女たち自身も『男の子だから仕方がない』『男の子はこうあるべき』という神話に惑わされて、お手上げ状態なのだ」

「自分には理解できない男の子の行動に直面すると、『男の子ってどうしてこうなのかしら』とつぶやきながら、夫や周囲の《男性エキスパート》に伺いを立てる母 親は多い。すると十中八九『甘やかすからだ』『赤ん坊扱いするな』『自立させなきゃダメだ』という忠告を聞かされる羽目になる。『女の子の気持ちならよく わかるから娘の問題には苦労しない。でも男の子はぜんぜん違うんですもの』と彼女たちは言う。こうして母親としての勘を疑い、幼い息子に感じる自然な情愛 を抑制して、早すぎる親離れを息子に強いる風習に加担していくのである」
 
男親は自分自身が社会的に刷り込まれていることに気づかず、男の子に対しては早く自立を促し、子供との情感的なコミュニケーションも避けて、息子が心の準備が出来ているか・成熟度に関わらず、息子を谷底に突き落とし、独力で父親を乗り越えてくれるように期待するように感じます。
 
ここで母親が自分の直感を信じて、そこを補填できればよいのですが、あらゆる子育ての権力を取り上げられ(病気は医師に、教育は学校や塾に、そして日常の子育てはマスコミに)、一人ぼっちで置き去りにされていると言えるかも知れません。
 
その結果が、前述の描写になります。
 
「多くの男の子たちが早すぎる親離れを強いられ、年齢にそぐわないチャレンジにむかわされている。5・6歳のうちから、学校やキャンプやさまざまな活動の中で独立心を見せることを期待され、思春期には新しい学校、運動競技、仕事、デート、旅行などの試練で再び試される」

「少年たちの世界を広げることが悪いのではない。親はいつでもそれを目指すべきだ。問題は、どのようにしてそれをするかである。十分な 準備のないまま、心の支えもなしに、自分の気持ちを表現するチャンスも与えられず、そして後戻りすることも、進路を変える選択もないまま、突然、家庭の外 に放り出されたときになにが起こるのだろうか。とまどいや不平をもらすことは赦されない。なぜなら世間の常識は、男の子が《真の男》になるためには『感情 を殺さなければならない』というからだ。私たちは女の子にはこのような『心の切断』を強いない。むしろ、男の子と同じように扱ったならば、彼女たちが深く 傷つくことを知っている」

「男の子は自分の脆さを恥じ、そのために感情を殺して、 やがて本当の自分を失っていく。つらいときの支えになってくれるはずの家族にすら、『男らしくしろ』と突き放されたとき、少年たちはたったひとりでどうし ていいかわからず、心細くて怯えてしまう。ところが世の中は、男はそんな《女々しい》感情を持たぬものだという。じゃあ《持っている》自分はダメな男なん だ、と恥じる。しかしその恥辱感を語ってもいけないし、どんな言葉で語ればよいのかもわからない。これをくりかえしていくうちに彼らの感性は心の奥に沈潜 し、自分自身の心との完全な断絶が起こる。こうして仮面をかぶりきってはじめて、世間は彼らを『男になった』と認めるのだ」
 
 
これでは、自分の感情を言葉で表現して、心配事も弱みも全部さらけ出すようなセラピーとは距離があるように感じてしまいます。
 
自分の感情を押し殺して、恐怖は自分で感じないほど深く押し込めて、弱みを出してはいけないと教えられ、自分自身のことで自分ではコントロールできていないことを認めることは許されず……。
 
拙速な一般化をするつもりはありませんが、このような側面が「男心」にあるのかも知れないと思った次第です。

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