実は最近「オーストラリア・ブッシュ・フラワーエッセンス」の続編となる「ブッシュ・フラワー・ヒーリング」を読み直しているのですが、そこでふと思ったことを。
「ブッシュ・フラワー・ヒーリング」の中で紹介されている比較的新しいエッセンスの一つにフレッシュウォーター・マングローブというのがあります。
正直このエッセンスを使ったことはあまりないのですが、それはこのエッセンスが実体験に基づかない偏見に関するものだからです。オーストラリアなどでは顕著な現象ですが、たとえばアボリジニに対する根強い偏見があります。確かに日本でも外国人、部落民、ほかのアジア圏の国民に対する偏見があるはずなのですが、なぜかこれまで使う機会がありませんでした。
このエッセンスとは直接の関係はありませんが、すべての答えは内にある、とよく言われます。
そのひとつの側面は、自分が何かについて迷った時、自分の心に偏見なく、先入観なく尋ねることによって、自分の内にあらゆる問題への答えを見出すことができるということです。
もう一つの側面は、外から得た知識や情報は、その自分の内にある答えを見出しにくくすることもあろうかと思います。
たとえば、自分の「知(自分が今知っていることですべての問題に対する答えを引き出すことができる)」に自信が持てない場合、誰かほかの人の知識を集め、それを人に語ることにより、自分の弱さをヨロイで守ろうとします。
スピリチュアルなワークショップ・ホリックなどはその一例かも知れません。あるいは、男性がよく述べる蘊蓄もその部分があろうかと思います。
しかし自分の中にすべての答えがあるという前提から出発するとまったく違った態度がとれます。
これは私がクレイボヤンスの学校で改めて確認させられたことですが、アストラル界には人間の魂がこれまで蓄積した経験や知識が蓄えられているところがあると言われます。その場所に行けば、自分がこれまで学んだことがないことであっても、それに関連する知識を得ることができます。一部にはこの「アストラル図書館」とでも呼ぶべきものを利用して、学校の勉強に役立てている人もいるようです。
これは私が何度も書いていることですが、エネルギーの世界では「なんでもあり!」ですので、自分がその場所に行くと決めたら行くことができます。つまり、そのようなことが不可能だと考えることが足かせとなって、その情報の活用を阻んでいることになります。
もし心の奥底から「自分の内にすべての答えがある」と考えていれば、当然の如くこのような情報・知識・経験を活用することができるはずなのです。
主観的現実という概念がありますが、自分の周囲の現実は自分が創り出している、自分の中に存在している、逆にいえば、自分の中に存在しないものは周囲の現実のなかにも存在し得ないということになります。
例えば、なぜ自分にばかりこのような不幸なことが起きるのか? と感じることがあるかもしれません。
なぜ自分は普通の人生を送ることができないのか? 他人は幸せそうにしているのに、なぜ自分だけがこのような苦労をしなくてはいけないのか? などです。
すると、悩みや苦しみの原因を外に求めたくなります。
相手が悪い。
会社が悪い。
親がいけないんだ。
社会が悪い。
などなど。
極端な場合、相手や社会に対して恨み溜めて、反社会的行動になることさえあります。
しかし、周囲の現実は自分の中あるものを反映しているという可能性を考えてみると、少し違ったものが見えるかもしれません。
嫌なタイプの人が目の前にいる場合、ひょっとしたら、その嫌な部分は自分の中で受け入れられていない部分が反映されているのかも。
今自分が苦労せざるを得ない状況にいるとすれば、自分がそれを乗り越える力をつけるために起きているのかも。
魂的に見れば、ある親のもとに生まれてきたのは自分の選択だったと言えますが、自分が選んだ親のことで苦労しているのは、そこで何か新しいものを自分が学ぶことが必要なのかも。
今日、何か不愉快なことが起きたのは、ひょっとしたら自分の中に未解決の感情的引っ掛かりがあることを示しているのかも。
ただし、気をつけておきたいのは、このような自分の足りない部分や未熟さがあるからとしても、それは自分が「悪い」からではない、ということです。
完璧な人間はいません。私たち一人ひとりは自分の人間力を高めるために生きているのです。
人生全部、練習みたいなものとも言えます。
今日は上手に出来なくてもOKなのです。明日出来るようになればいいのです。