自分は愛される存在ではない
次に、「愛される存在ではない」ということについて。
このように感じるように至ったには様々なキッカケがあると思います。例えば、人に拒絶された、人の醜さを見てしまった、人が信頼できない、人に裏切られた、人から攻撃を受けた、などなど。
確かに、拒絶されたり、裏切られたり、傷つけられたりしたら、自分の痛みに意識が集中します。痛かった、辛かった、苦しかった、などなど……。
でも、それは過去のことで、既に起こってしまったことなのです。
誰か大切な人が亡くなったとします。自分が何をしても、その人を地上に戻してくることは出来ません。ここで考えている次元においては、「過去」は変えることは出来ないのです。
それらの苦しみや痛みも、過去の瞬間に感じたことです。
つまり、過去のある瞬間に自分を戻したら、その瞬間の痛みは戻ってきますが、そこにある意識を現在、今の瞬間に持ってくると、その痛みは存在しません。
逆に、嬉しいことを思い出してみてください。例えば、自分が5歳の頃に家族で旅行に行った思い出や、同じころに電車でウトウトと寝てしまった自分を抱きかけて家に運んでくれた親の温かさ、など。あるいは、学生時代に自分が何かの賞を受けたことでもいいです。
その時自分が見た景色や匂いなどをありありを思い出すことによって、その時に気持ちが戻ってくることがわかると思います。それは過去を現在に持ってくることによって、過去の経験を再体験しているのです。
ではなぜ私たちは、このように良い記憶や感覚を感じるようにしないで、過去の辛い・苦しい思い出だけを現在に持ち込もうとするのでしょう?
魂にとってみれば、その時のネガティブな感情(悲しみ・怒り・恐怖など)が、現在の何かに共鳴していて、自分がそれを手放すタイミングである、ということではあると思います。
でも、良い記憶や感覚を取り戻すのは、嫌な記憶を呼び起こすことと、少なくとも同じくらい簡単なことなのです。
これまでの自分の人生で一番良かった瞬間(それは0.5秒くらいのものであったとしても)を思い出して、その時の波動に自分自身をあわせる練習をすることもお勧めします。
さて、次に、この苦しみの記憶に苛まれている場合、ほぼ共通して言えるのは、ここで相手がその行為を取らなくてはならなかった理由、その気持ちに注意を向けることが、一つ大切だということです。
例えば、相手(たとえば自分の親)が自分のことを拒絶したり、邪険に取り扱ったとしましょう。では、その時に、親は本当はどのように感じていたのでしょうか?
ひょっとすると、その時、親はとても苦しい状態にいたのかも知れません。経済的な不安が強かったとか、姑との関係で苦しんでいたとか。
親にしてみれば、あなたを拒絶したつもりはないのかも知れません。ちょっと夕食の準備や仕事のことで忙しかったから、後でね……、というつもりだったのかも。でも言葉は思わずキツイものになってしまったのかも知れません。
あるいは、上のような悩みで一杯一杯になっていて、自分の感情のやりどころが分からなくなっていたのかも知れません。誰でも体調が悪い時とか、不愉快な経験をした直後なら、そういうことがあっても不思議ではありませんから。
でも、親が自分のことをどれだけ心配して、幸せになって欲しいと思っていたかを感じるような経験・思い出はありませんか?
子供の頃に優しく髪をといてくれたとか、寝かしつけてくれたとか。或いは、自分が欲しいと思ったものを買ってくれたとか。
親は子供のことを心配するものです。ですから、思わず余計なことまで言ってしまったかも知れません。あるいは、ちょっと厳しく子供を制限してしまったかも知れません。でもその裏にある気持ち・動機は、子供に少しでも幸せになって欲しい、というものです。
「幸せ」の基準が子供のものと違うとしても、それは親が子供の幸せを願っている気持ちの価値を些かも低めるものではありません。
時には不機嫌だったり支配的だったりしたこともあるかも知れませんが、親も一人の人間です。子供と同じように色々な経験をして、魂を成長させようとしている、ある意味でまだ不完全な存在です。
あまり自分をよく知らない知人から贈り物をもらったとして、その贈り物が自分が嫌いなものであっても、その「気持ちだけいただく」ことはありますよね。親に対しても同じなのです。
これまで親を例にとっていますが、これは職場の上司、恋人、パートナーなどでも全部同じです。相手の気持ちだけをいただく、ようにしてみるとか、相手がそ
の瞬間に置かれていた痛み・苦しみ・悲しみ・怒りを、少しだけでも「理解」してあげることが出来れば、自分が受けた傷(それは前述の通り、過去のものです
ね♪)の痛みも軽くなると思います。
目の前で子猫が車に轢かれて死にそうになっているのを見て、自分の体の痛みを忘れたりすることありませんか?それにちょっと似てます。
もちろん、過去に相手がとった行動そのものを肯定することとは違います。